● 崇高とは? -美と崇高、形式の違い-
崇高とは美と同じく、美学的判断力に属するもの。
「美の感情は、生を促進する感情を直接にともない、
したがって、また、感覚的な刺激や想像力の自由なはたらきとも一致しうる。
それに反し、崇高の感情の方は、間接的にしか生じない快さである。
つまり、この快さは、生の諸力がいったんはしばらく堰止められるが、
その後いっそう激しくほとばしり出る感情によってもたらされる。」
「崇高は、感覚的な刺激と一致しない。
崇高の場合には、心のはたらきはただ対象に引き寄せられるのではなくて、
むしろ対象と反発しあい、また、たえず対象と引き離される。」
判断力にとって、崇高の感情を喚起するものは、
「形式の上で目的に反している」し、また「表出する能力にとっても適していない」。
以上より、
1.美がすぐれて形式(かたち、形態)に関わるのに対して、
崇高は、形式を持たないものについて見出される。
だから、無限定性(無規定性)がその特徴になる。
2.崇高の感情については、その快さは、
想像力の自由な遊びや戯れから直接には得られない。
それは対象への反発を通し、不快を介してのみえられる。
3.熱情や無感動のようなものも、理念や理性と結びついた
心の高揚や満足感を与えるので、やはり崇高の感情に属する。
よって崇高は、狭義の美とは対立するとはいえ、
実は美がエネルギーを持ち、私達に強く訴えかけてくるための不可欠な要素である。
崇高は、美がスケールの大きな美になるためにはどうしても必要なものなのである。
たとえば、〈縄文の美〉が現代の日本人に強く訴えかけるところがあるのも、
そのためなのである。また、多くの宗教画に見られるように、
美が高じればおのずと崇高になる。
崇高は「絶大」という「量」の概念によって言い当てられるもの。
たとえば、広大な砂漠や星空、巨大なピラミッドには、
その広さ・大きさによって崇高を感じる。
また、火山のすさまじい破壊力や、同じ海でも荒れ狂う海には、その力故に崇高を感じる。
カントは前者を「数学的崇高」、後者を「力学的崇高」と呼んだ
(「自然は恐怖の対象として考えられる限りにおいてだけ力として考えられ」)。
すなわち、対象をいうよりは、対象の量を判定する我々の
心的状態を「崇高」と判定し、対象に投影している。
崇高では、構想力と理性が関係。
構想力が捉えきれない量を、理性と関係させる。
カントが美を道徳の象徴・前提としているのは、
美が自然界と英知界の媒介をする原理と位置づけているからである。
確かに善を言い表すのに、「潔白」「麗しい」「清い」などの美の用語を用いる。
芸術はその美と崇高とを結びつける。
しかし、現代芸術の動向は、崇高の消滅へと向かっている。
「偉大な芸術」は終わってしまったのかもしれない。
スナフシン
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